とんだ布教DVDだ

国立DVDはブックレットに歌詞が載っている*1のがいいと思います!パフォーマンス云々はドリームアライブのDVDを待ちたいと思います!言霊。
以下、戯言というよりうわごとですので閉じます。


アイドルがいるからキャーキャー言うのかキャーキャー言いたいからアイドルがいるのか。結論から言うと、むろん後者である。アイドルは欲望を満たす存在だ。
アイドルが時代に認められるものから認めさせるものになって随分経つように思う。アイドルが自らアイドルですといってデビューする当今、宣言すれば誰でもアイドルだ。「なる」ものから「ある」ものになったアイドル。「アイドルである」アイドルが、アイドルであり続けるためには支持者との共犯関係が不可欠である。支持者とはファンだのヲタだの以前に、タレント事務所であり、テレビ局であり、出版社であり、広告代理店であり、つまり電通である...が、この辺はせめてカレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫NF)を読了してから触れるべきでしょうな。上巻を読んだだけでおなかいっぱい、10年ほったらかしているようじゃダメだわ。反論の余地として、比較的スポンサーの影響が少ないだろう深夜番組の人気、ブログや動画サイト等、インターネットを通して日本のみならず海外でも増えるファンの存在、があるにしても。
ファンだのヲタだのである自分は、それでもなお、いま愛を語ろう。コンサートのいいところは生の舞台であること、興行であることだと思うのだが、嵐のコンサートで感じる幸せってなんだろうかと考えたときに浮かぶのは、やっぱり愛なのかなあ。愛とかあんまり気安く使うもんじゃないと思うけど、幸せになる条件はただひとつ、その場に居合わせることなのである。その場にいれば誰でも幸せになれるのである。この平等。これを愛と呼ばないでなんと呼ぶのだろうか。会場にいるのは嵐のファン*2だけじゃなく、バック担もいれば、関係者席の業界人(?)もいる。嵐のファンと言ったって5人全員を好きな人もいれば、1人しか見ていない人もいるし、同じ嵐を見ているようで、みな見ているものはそれぞれ違うわけで。言ってしまえば嵐のファンじゃなくてもよい。
「7万人一緒に幸せになろうぜ!」とまっつんは叫ぶ。この「一緒に」が肝要なのであって、一緒だから幸せなのである。幸せになるのが自分だけだとして、あれだけの幸せは生まれるだろうか。己の欲望が満たされればそれだけで幸せだろうか。人間、自己愛だけでは生きていけないはずである。であるからして、国立はいつにも増して幸せ空間だったのである。
矛盾を恐れずに言うと、最大の幸せは嵐の5人が示す嵐とファンが思う嵐の合致であろう。アイドルとファンの共犯関係はここにあり、その辺の操作が嵐はうまいのかも。2008年9月5日、あの日あの時、国立に確かにそれはあった。DVDを観る限り6日もあったのでしょう。その上、ありえない姿*3を見せられた日には、こんなこと言うのも許して欲しい。あの聖火台にいた人達は、嵐であって嵐じゃありません。それは、ファンが見たい一つ上の一つ先の嵐である。さくらいさん的に夢と言ってもよい。そんな夢空間がDVDになって市場に流通するなんて、新手の布教としか思えません。
ヲタ自重。信者乙。って自分で言うけど、『聖☆おにいさん』3巻を読んだら*4なんだか開き直ってしまった。ブッダとイエスギャグマンガなんてクールジャパンになりえないからいいんじゃないかな。個人的には本当のクールはそこにこそあると思っているけれど、というのは完全に余談。
新規が早くも信者です。入信3年目です。とか居直るのはやめて「嵐=宗教」問題は今後も課題としたい、と思いながらも一方で妄想がとまらない。宗教といっても、どうせ教義「仲良く!」とかでしょ?ならいいとおもーう。仲良くするには差異を認めないと。嵐の人達の仲の良さって、つまりそこでしょう。「というより仲良くしてないと、ボクら、生活できないんですよ」*5という二宮さんの答えが好きです。その後「仕事だからね」と続ける松本さんも好きです。告白。差異を認めるところから愛ははじまるよね。ヲタクが嵐に学ぶべきところはそこだよね。わたし、アイドルを考えることが世界平和につながるって割と本気で思ってるんだ。

*1:特にテルミーがありがたい

*2:便宜上ファンと書きますが、それぞれ好きに読み替えてください

*3:二宮「ありえないんだよ。だからビビるんだよ。あそこに出たとき」

*4:手書き文字で「嵐だったら/嵐だったら/どうしよう!!」と書いてあるコマがある

*5:ザテレビジョン3/20号2009年№11「何で嵐はそんなに仲がいいの?」という、か〜なさん16歳の質問に対する