最終号

やぁやぁ、広告批評はおもしろいね。4月1日付で発売された336号をもって、その30年間の歴史に終止符を打った「広告批評」。私にとって、30年といえばほぼ自分の人生と同じ長さで、気付いたときには、既にテレビのコメンテーターとして活躍していた天野祐吉を見て、何も知らない子供ながら、このおじさんの言うことは信用できると思っていたのでした。以下、斜め読みの感想。


橋本治『あゝでもなくこうでもなく』
最近、ようやく橋本治にぶち当たった気がしているのだ。さすがに名前は知っていたけれども、今よりずっと潔癖だった子供時代の私にとって「桃尻娘」はその語感からしてハードルが高すぎて、以来、喰わず嫌いのままでいた。それが、去年の淋派展で特集が組まれたBRUTUSかCasa BRUTUS(未だ解かれないままの引っ越し荷物に紛れているので特定できません)で、名前を見かけて以来、急激に親近感が高まり、なぜ今まで無視していたんだろうかと、とりあえず本を読もうと決めて...まぁ半年は軽く過ぎているのですが、公開日記に書いているわけですし、近いうち必ず読みますよ!それで、『あゝでもなくこうでもなく』は脳内ダダ漏れといいますか、思考の過程をあえて省かず「ダラダラ」書いているのだけど、さすが橋本治、スルドイ!と、知らないくせに膝を打ち、そりゃもう、本、読みますよ!!と何度も思わされるんだけど、何から読めばいいですかね?と書店員が聞いてみる。

実のところ私は、「景気の先き行き」とか「世界経済のあり方」なんていうものよりも、「この先、"人と組織のあり方”というのはどうなって行くんだろうか?」と、そのことを一番不安がっている。「架空の一体感が人を熱狂させて、その後には空漠がある」というのは、よくないと思うから。

問題は、結婚ーーそしてその後に発生する「家庭」というものがよく分からなくなって、それを「会社」というアナロジーで語るしかなくなっているということにあるはずなんだが。

リストラがあって、組織がタイトになって、そして古いオヤジ達を定年で失って、「みんなが仲良くなれて、しかも効率的に機能をする組織」は、やっぱり大丈夫なんだろうか?そういう「変化」を実現させる間に、「意味を失った家庭」に子供は生まれて育って、結構「厄介なものを隠し持った人間」になってしまっていたりもするわけで、そうそう簡単に「新しい、そしてよりよい」が出現するわけもない。
 そこら辺は、どう考えられてるんでしょうか?なんであれ、後はもう「覚悟をする」しかない。

そう。不安なんである。このよるべなき社会。そうすると、そうか。『僕が僕のすべて』はアイドルによる祈りであったのだ、というところに思い至る。嵐脳と笑わば笑え。「確かなことは ひとつだけ」。「今ここにいる 僕が僕のすべて それだけは変わらない」。これを悲痛な「覚悟」と言わずして何というのか。ひとりひとりに寄り添い、共に祈ってくれるアイドル。いま嵐が時代に求められているのだとしたら、そういうことなのだと思う。たとえそれが「架空の一体感」だとしても。


橋本治に戻って、共感した部分をもうひとつ。

新しい時代が壁にぶつかっているのなら、それはかつて存在した「重要な古さ」を見捨てたせいだと思っている。だから私は、「見捨てられたまんまの古さ」に関心がある。そこで配線が切れていたら、そのコードをつなぎ直す必要はあるんじゃないかと。


どうも病が重くなる一方で困る。他の記事に関しては、あらためて書くことにします。