私たちの世代、出来ちゃった婚しかないと思いますよ(笑)

というのは、文春に掲載された受賞者インタビューの中で『私たちの世代(三十代)が「産む」には』という枠組みの問いへの答え。全く同感。これに関しては私も出遅れた(笑)。
第138回芥川賞受賞作、川上未映子「乳と卵」。
簡単な感想。


東京で暮らすわたしの元に大阪から姉の巻子と姪の緑子が訪ねてきた夏の3日間。巻子と、緑子の父親は10年以上前、緑子が物心つく前に別れている。豊胸手術を受けたい姉と口をきかない姪を見守る(?)わたし。女3人の物語。
子ども(余談:一般的になっているとはいえ、この表記には疑義を抱いている。子供かこどもで良くないだろうか)を生み育てたことで、胸が小さくなったと気に病み、場末のスナック勤めをして働きづめの割には大した蓄えもないだろうに金のかかる豊胸手術を考える巻子と、生活が苦しいのも母が豊胸手術に拘るのも自分のせいだと思い詰め、ひどいことを言って傷つけないようにと口をつぐみ筆談で会話する緑子のすれ違いは哀れで悲しい。
巻子が豊胸に拘るのは己の身体の主導権を己に取り戻すためであって、それは別れた夫との訣別でもある。
「子どもが出来るのは突き詰めて考えれば誰のせいでもない、誰の仕業でもないことである、子どもは、いや、この場合は、緑子は、というべきだろう、本質的にいえば緑子の誕生が、発生が、誰かの意図および作為であるわけがないのだし、孕むということは人為ではないよ」という夫の言葉を「何をゆうてんのかがわからん」ままに「まるまま」記憶しているという巻子は、別れてからも夫の言葉にとらわれて生きてきたのだ。緑子を孕んだのも自分の意志、生んだのも自分の意志のはずである。出産で醜く変化した己の身体を受け入れることは、すなわち別れた夫の言葉を受け入れることになる。自分ではコントロールできない身体の変化を豊胸手術で変えることは、巻子にとって自己の意志の表明だ。それは自ら選び取って緑子の母親になったことの宣言に他ならない。


・・どうも簡潔に書けないな。夜中に小腹が空いてきた。続きはまた、といって書いた試しがないけれど。