愚図記

お祝いの前日にこんなこと書くなんて我ながら悪趣味だと思います。
Withに載るのね。にのみやん。流星の帯にも驚いたけど、こうだんしゃとぜんめんせんそうやらいうはなしはたんなるでまごぎーだったのか。VSしゅふとせいかつしゃもなんだかゆきどけもようだし。なんたって流星にJUNONがわざとらしく映りこんでいるものな。どうやら私は、週刊誌に飽きたらずスポーツ新聞にまでもまんまと踊らされたようだ。
己の愚かさは置いておいて、もしかするとこれは喜ぶべき事態である。そもそも出版社と全面戦争なんてばからしいにも程がある。流星が終わったら元のもくあみにならないことを祈るばかりだ。
誕生日は堂々と告白してもいい日だと思っているので、まぁ普段から関係なく告白していますが、ここ数日暇さえあればおおのさとしに思いを巡らせているのだけれど、どうもうまくない。
嵐は楽しい。嵐のコンサートはとても楽しい。それはアリーナだろうがドームだろうが変わらないという手応えをつかんだ今となっては、海外でも日本でもゆるぐことのない嵐の楽しさは、もはや確信である。つまりアジアに行こうが行くまいが変わらないのだ。台北、ソウル、上海と、アジアツアーを楽しむも良し、j-webなど見て、いってらっしゃーいなんつって一人笑いするのもオツなものである。私はむろん後者であるが、誓ってやせ我慢ではない。ここまでわかっていてどうしてあんなに行きたかったかって、アイドルを追いかけて海外までいったとなれば、それでどうにか禊ぎが済むような気がしたからなのだ。どうも自分の心境を顧みるに、ジャニオタが恐かったんですね。というより女子の集団が恐いのだと思う。これが男子の集団となると、まとめて蹴飛ばしておけという気持でいるのに(当然それはそんなわけにはいかなくていつも痛い目見るのに学習しない)対女子ともなると緊張して、真面目に、必死にならなくてはいけない、と思いこむ節があるのだね。もちろん自分がやりたかったからというのが第一だけれど、いくらなんでもやりすぎた。9周年を大事にしなけりゃかわいそうだとリーダー自ら最終兵器としてあちこちで爆発していたからといって、余りにも必死に追いかけ過ぎた。アジアツアーの期間中、いってらっしゃーい&おかえり〜とグフグフしながら、やっと自分のペースを取り戻すことができました。取り戻したというよりか、嵐に巻き込まれて2年ばかり、ようやく自分のペースに嵐を組み込めたのだと思う。おかげで快適である。
こんなこと言ったっていつまたペースを乱されるか。来年は10周年だし、あたふたするのは火を見るよりあきらかだ。それでもこの留守番経験は大きかったです。
なんだかとりとめもなく阿呆なことばかり書いている気がしますが、阿呆ついでに私の自担問題につきまして。
今更蒸し返すようで申し訳ないけれど、今年この件を抜きにおおのさとしは語れない。週刊誌のはなし。
結局、週刊現代は大相撲の八百長問題を再燃させたかったのでしょう。その切り口が江別の地名だったと。札幌学院大学の最寄り駅だと。札幌近郊の方にしかわからないという事であれば、ほっかいどうに自生しているあの草だったと、いうことなんでしょうな。tomokoさん(リンクしません。すみません)が指摘していたように、現在、国が取締キャンペーン中であるのに乗じてネタにされたのだと思う。それだけでなくジャニーズバッシングの一環であるのは間違いない。そして残念だけどバッシングがない方がおかしいのだ。これはまた別のはなし。
あの記事は読みました。そりゃもう隅から隅まで。写真も穴のあくほど見つめました。一般的に見て、週刊誌はあることないこと書くものなので、結論としては、あることないこととしか言いようがないのです。これは個人的な感想も同じ。あったともなかったとも言い切れない。ただ、若者の規範であるべきアイドルが(これは若者相手に(もちろん若者だけではないけど)多種多様なメディア露出を生業としている手前引き受けなければならない命題である)こんなゴシップ許されることでないのは理解できるし、記事の内容にも関わらず、妙な信憑性を持たせてしまう(くりかえすが私は記事を嘘だとも本当だとも思っていないし、判断するには材料が足りない)彼のキャラクターこそが問題なのだとわかってもいる。
そもそもキャラクターってなんだろね?と言い出すと終わらない。アイドルファンであることはその物語を消費することだと言われたことがある。悔しいが否定はできない。でも物語なんていらないよ?
それにしても、高校時分、週刊文春の原色美女図鑑すら受けつけなかった人間が、長じて、自担とおなごの尻のツーショットで笑うなんて、人生ってすばらしい。しかしながら涼しい顔してやり過ごしたなんて気取れるわけもなく、国立で謝罪があったらどうしようとうろたえていたし、何よりそれまで目覚ましにしていたプルルルシンプルのうたが聴けなくなるという、わかりにくい傷つき方をしたりしました。
最近やっとこさ「担当」という言葉を飲み込んで、担当とはまったく業であることよなぁ〜などと詠嘆する日々ですが、これでもかとばかりに自担の重みを思い知らされた一件でした。