主人公は時間

「文藝春秋」(2009年9月号)の芥川賞発表受賞作全文掲載部分を読んで
今朝の新聞に紹介記事でも出たのか、磯崎*1憲一郎『終の住処』(新潮社)が再び売れている。ちょうど昼休みに読み終えたばかりの私は、同僚に感想を求められてこう答えた。「おっさんが書いた小説」「構造ばかりが透けて見えて中身がない」。文字にするとずいぶん辛辣で自分の発した言葉に恥ずかしくなります。村上龍の選評と言葉がダブるし。

『終の住処』には感情移入できなかった。現代を知的に象徴しているかのように見えるが、作者の意図や計算が透けて見えて、わたしはいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった、今となってはジョークとしか思えない死語である。

うーむ。特別「ペダンチック」とも「ハイブロウ」とも感じなかったけどな。そもそも現代を象徴しているわけではないと思う。むしろ普遍的な時間、時間の普遍性の物語であり、高度経済成長期を時代設定としているものの、時代は、いや時代どころか主人公さえ入れ替え可能である。作品中、時間を象徴するのは家だ。「家によって、ある定められた期間、そこに住む人間が生かされているだけなのです」と老建築家が言う「家」。すなわちタイトルの「終の住処」である。受賞者インタビューで、作者は

どんなに性格や価値観が違っていて、理解しあえない夫婦でも、四十年、五十年一緒に生活したら、そっちのほうが重い

と語っている。この小説のテーマである。読み通して、それ以上でも以下でもなかったところがちょっと残念。
メモ:読点が特徴的

*1:崎は立ザキ